老いるということ
老いるということは、あまりにも多くの経験を積んだので好奇心が湧く対象が少なくなるということなのか?
だから時間のたつのが早く感じられるようになるのか?
「老就」は、老いというものに就くのであって、決して自覚するのではない。
知らぬ間に老いていたというやつだ。
「老執」は、ああ...年を重ねてしまったと老いたという事実に執着するのではなく、
老いを自覚し、その年齢に相応しい人生を執り行うことだ。
「老修」というのは年齢を許容するのではなく、年齢に見合った努力をし年齢に相応しい生き方をすることだ。
人は生まれれば、すぐに死というものに直面しながら人生を送らなければならない。
自然の理といえばそれまでだが、生まれてこなければ苦も悲も恐もない。
ゼロの観念である。
しかしいずれはこの世を去るとはいえ、それまでの間に喜怒哀楽があり、結構楽しいときもあり、花咲くときもあり、またその反対のことも多々ある。
七転八起か七転八倒か
悲喜こもごもか喜怒哀楽か
生を享受するのか死を恐れるのか
だから宗教ができたんだろうな。
すがるものがなければやっていけない脆さから神や仏が生まれた。
しかし永遠に解けない謎は生死ではなく生にある。
そしてそこにこそ神の存在を容認しても良いかなと思える事実がある。
今日から暫く、「老い」に就いて遺書してみよう(笑)