終わりの予感

題名が変わった。

いよいよ我田引水の本題に入る。

某日某所へ出かけ駐車場に車を停めた。

車を停めてドアを開けようとした瞬間、つむじ風のような突風が吹き抜けた。ドアを引き戻すことは不可能だった。

 

ドアは隣の車のサイドミラーの下へ食い込み、ミラーは破損して垂れ下がりドアも凹んだ。

1秒の何分の1かの出来事だった。

なにをすればよいのかも思いつかず暫し呆然。

ようやくドアを引き離すことが先決だと勝手に思い込み、満身の力で食い込んだドアを引き離した。

 

これは交通事故なのか?

いやそうではない。

自然災害?しかし車の保険にこの状態に対応する保証は?対物か?

 

それよりまず車の所有者を探すことが先決か?

某所の案内所で構内放送して貰うか?

まず車から出ようとしたら、引っぺがしたドアが邪魔になって出られない。

バックで車を移動してなんとか車外に出たとたん強烈な腹痛と便意に襲われた。

とても歩いて構内のトイレまで行くのは不可能だった。

車に乗り込みトイレのある近くまで移動して、必死の思いでトイレに駆け込んだ。

 

早く終われよと腹が立つほどしぶり腹は長々と糞をひり出した。

漏らすこともなくなんとか終えて現場に戻ると対象車両が見当たらない。

場所を間違ったか?

車で駐車場を回ってみたが、車種までは記憶にない対象車両は見当たらない。

破損しているのはわかるはずである。

或いは運転席から乗り込んで、気づかずに走り去ったか?

事故現場と思しき当たりの地面も破損物が落ちてないか調べたが見当たらない。

 

どうすればよいのか?なにも思いつかない。

思考が停止して、無意識に店外へ車を走らせていた。

交差点の信号で停まったときに、これは当て逃げという犯罪行為であると停止した思考の中から辛うじて考えというものが現れた。

 

現場に戻り警察に通報、警官の到着を待っていたが、俺が何をした?

開けた瞬間にドアは突風に煽られ隣の車に激突した。

場合によれば俺が大怪我をしていたかもしれない。

まずこの事態が交通事故に当たるのか?

 

長年車に乗っていて初めての経験である。まず起こり得ないことが我が身に起こった。

今後起きるかもしれない大事の予兆か。

 

警官に状況と経緯を説明し、提示すべき書類、証明書を提示して、後は該当する事故の届け出が出て来るかどうかである。

保険会社にも連絡をした。

為すべきことは済ませた。

しかし釈然としない。

ドアを破損して困惑しているであろう相手にも申し訳なさを感じる。

 

経緯はこういうものであった。

結果はまだ出ていない。

数日後、この突拍子もない出来事が、俺の人生の方向を大きく変えるきっかけであったことに気付く。

 

あり得ないことが身に降りかかるのは、不運の始まりである。

寿命まで縮める恐ろしい事態が始まった。

運命とはこのような他愛ないきっかけで、方向転換を暗示するものか。

始まりと終わりの間にある、避けては通れない不可抗力の不運が始まった。

 

始まりと終わりはセット-6

始まりと終わりの究極は「生と死」であることは誰もが物心ついた頃から意識し始める厳粛な事実だ。 

年齢と共にそれに対する意識や感覚、認識も変わってくる。

笑いながら死を口にする年代もあれば、出来るだけ意識せず忘れようとする年代もある。

また思いもかけず直面してしまうこともあれば、瞬きする間もなく訪れることもある。

個人的には、期限を宣告され、或いはさほど遠くない期限にそれを受け入れるのは最も過酷で難渋を極める容認への努力を要すると思う。

病気によるもの、激戦地への徴兵、死刑囚などがそれらに当たるが、どれにも微かではあるが生への期待は残されている。

 

死生観は人種によって大きく異なる。

また育った環境や、教育によっても異なると思われる。

人としての尊厳を重んじるほど死に臨んだときの態度は潔く、生き様に強い執着を持って生きた人ほど生への執着は強い。

「仕方ないだろう」と受け入れる人もいれば、「なぜなんだ?どうしてなんだ?」と否定する人もいる。

 

偉人、著名人の最期のときはほとんどの場合飾られて伝えられる。

それは民衆の心を安定させ、希望の光を持たせるためである。

つまり自分もそうあらねばと言う意識喚起のためである。

宗教とは無縁の政治的なものを感じる。

破廉恥でもいい、不細工でもいい、

惨めでもいい、或いはお手本のような堂々たるものでもいい。

最期の感情の発露、吐露、表現がどのようなものであっても誰もそれを責めることも出来ないし、批判や評論することも許されない。

「終わり」はその先がない事象で、その先がないものを評価することは許されない。

いや、意味がない。

しかし全ての人が、死を迎える寸前まで意識の有無に関わらずスジャータの出現を待っているのだろう。

 

 

 

始まりと終わりはセット-5

2ヶ月半の時間が経過した。

運命を電池や糸に例えて、自己満足の怪しげな人生運命説を展開していたが、思わぬ出来事が勃発し、2ヶ月ほど生きるための買い出しと商取引を実行するための外出以外は家に閉じこもり(引きこもりではない)、ただひたすら今なにが起きているのか、勃発した出来事の原因はなにか、それによって生じるのは利益か損害か、或いは利害ではなくそれこそ電池と糸で操ると例えた運命を大きく変えるような何かが近い未来に居座っているのか?などと無駄な考えに時間を費やしていた。

我が身に起こった出来事ではあるが、予測したり夢に見ることもなかったようなことで、当初は頭から、思考からそれを振り払い、あたかもなにもなかったかのように時間の経過を待つだけの日々を送っていたが、まるで池の深みを探るために抜き足差し足で少しづつ歩を進めるに似た事実の客観的な観察と認識、それに関わる情報収集を行っていくうちに、まず利害関係ではノンプロフィットで経済的負担が発生することは否めないことが判明した。

これは考えるまでもなく解ることで、しかし発生するであろう費用的なことに関してはまるで知識がなく、不安から考えることをネグっていた。

すると次に考えなければならないのは、勃発事象が自分の生活、将来にどのような影響を及ぼし、その結果生じるか残されるのは運命の種類で言えば、幸なのか不幸なのかと言うことである。

決して幸とはならないことは明らかだが、電池が尽きることなく、また糸がもつれたり途切れることがなく運を逃さずたぐり寄せることが出来れば不幸は生じない、残さない「期待」は持てる可能性はある。

しかし大きな問題は、自分自身の知識や力は何の役にも立たないことである。

それこそ運を天に任せて...持論とは大きく異なるが(笑)

慌てず騒がすを観察し、その流れ、動きで電池や糸の残量を推測し、たっぷりあれば成り行きに任せ、乏しければ落とし物の電池や糸に出会えることを期待しつつが尽きたときの準備も進めなければならない。

実に抽象的で、転結のない独白になってしまったが、自分では戦々恐々としながらも、持論証明への期待を抱き、いつになく早い時の経過に戸惑っている。

 

 

 

始まりと終わりはセット-4

閑話休題

暗殺事件はちょっとお休み<(_ _)>

何かのきっかけで時間の進む方法が変わって、しかしそれが運命だったと言われれば

それまでだけど💦

元々暗殺されなかったかもしれない龍馬の運命も時間の進む方向によってはあったかも知れないと仮説を立てる(手前勝手)

運命というのが最終到着地点だとすると、運と言うのは運命へと導くための細い糸のようなもの?

或いは運命の方向を照らすための懐中電灯のようなもの?

運がいい、運が悪い、運が尽きた、運を使い果たしたなどなど運にまつわる言葉がありますが?

これはすぐに切れる糸や丈夫な糸があるように、また懐中電灯なら電池残量やルーメンに差があるように、「いい」「悪い」があったりするんだろう。

運命に到着するまでに、糸が何度も切れて結び直したりするのは「運が悪い」、ひどい場合は糸が品切れで辿り着けないなんてこともあるかも?

懐中電灯ならルーメンが低くて前が見づらく、つまり予想や計画が立てづらく運命に到着するのに手間取る。ひどい場合は電池切れで前が見えなくなり前進できない。

これが「運が尽きた、運を使い果たした」なんだろう。

 

こう考えると運というやつは、質的、量的なものであって、それを持ってる個体による使い方で有効になるのではなく、良質で大量にあるかどうかが問題になる。

つまり努力によって改善、改良したりすることはできない。

「生まれながら」のものなんだ?

しかし質や量は管理方法によって良質を保ったり、使用料を加減して目減りを減らしたり出来る。

運がいいからどんどん行け!なんて言ってると、電池残量が少なくなって途中ダウンもあり得るし、糸がなくなることもあり得る。

ここで必要になるのが才能なんだろうね?

優れた才能を持ってることを「生まれながらの」なんて言うのかも。

才能っていうのは、なにも音楽や美術や学問、スポーツにのみ発揮されるもんじゃなくて、運命にたどり着くために自分の持って生まれた運をどのように使うか、配分するか、有効利用できるかどうかもさす言葉なんだろう。

 

おっと、忘れ物。

なんだか運命は、素晴らしい到着地点のような感じで書いてきたが、それは到着してからでないと素晴らしいのか、悲惨なのかはわからない。

到着することはある意味自然の法則に近く、しかし人間なら放棄することもできる。

放棄する、つまり生きることに疲れて諦める。

でもまあほとんどの人間は到着するまで頑張る。

途中で、糸が切れたりもつれたり、電池残量が少なくなって夜道を暗中模索で歩かなければならないようなこともある。

これが病気だったり、経済的困難だったり、人間関係のいさこざだったりと世間でいうところの病厄、災難、災厄なんていうものなんだろう。

 

もう少しで安泰な人生がと思っていたら、健康診断で「癌です」と宣告されたり、

取引がまとまって順調に進んだが、集金した手形が不当たりだったとか、運命の到着地点手前で糸も切れ、電池も尽きて暗闇で身動きできなくなる、つまりアルツハイマーになったとか?

いやいやそういう悲惨な例ばかりではなく、糸が切れかかった、残り少ない、電池がなくなりそうっていってたら、途中放棄した人が残していった糸や電池を手に入れて、

さあて仕切り直しなんていう「幸運」もなくはない。

運を手に入れたってやつかな?

 

昭和的に言えば「人生いろいろ」、運もいろいろ。

さあて、暗殺事件の裏側調査、頑張ってみよう。

 

始まりと終わりはセット-3

坂本龍馬暗殺!

って突然どうした?

ここにも時間が前に進む方向を変える出来事があった!

と自分が信じて思い込んでいることがあるのてす。

京の材木商酢屋に身を隠していた龍馬はその年の10月頃に土佐藩出入り商人近江屋に住まいを移した。

暗殺されるという噂は京の町でもはや知らないものもいないほどであったらしい。

脱藩者の龍馬は土佐藩邸には入れない。

薩摩藩邸に隠れろと勧める者もいたが、

「あそこへ行くのはまっことイヤミじゃ」と気が進まなかったらしい。

 

近江屋事件の当日

同じく近江屋で襲われた中岡慎太郎は、

用件を済ませて、途中で土佐藩士の谷干城の下宿を訪れたが、不在であったためそのまま近江屋に向かった。

ここでひとつ方向を変える「不在」という、中岡が近江屋へ行く時間を早めてしまう出来事が起こった。

早めに近江屋へ行った中岡と龍馬は、いつものごとく討幕、大政奉還について熱く語った。(と思われる)

熱い議論は時を忘れさせ、夕食もとらずに語り合った。

龍馬はこの数日前から風邪をひいており食欲がなかったのかも知れない。(あくまで想像ね?)

夜の7時も過ぎた頃に、中岡の用を済ませて訪れた本屋の息子の峰吉に軍鶏を買ってきてくれと頼んでいる。

風邪、食欲なし、滋養強壮のための軍鶏?だと考えると筋が通る(笑)

 

峰吉が軍鶏を買って帰ったのは9時頃であったという。

もう京の町は夕食も済ませ、そろそろ寝るか?と言う時間。

この時間に暗殺者は近江屋を訪れているが、それは夕食時を避け家人もそれぞれの部屋に戻った頃を狙ったのではないか?

しかし「不在」で早めに近江屋を訪れた中岡と龍馬は熱い議論に時を忘れ、9時を過ぎて夕食となった。

現場を見た人がいるわけではないので部屋の中がどういう状態であったかは解らないが、軍鶏鍋をはさんで龍馬と中岡が座っていたとすると?

部屋の中は狭くなり、当然刀は離れたところに置かれていたと想像できる。

「不在」「遅い夕食」膳で狭くなった部屋、刀は手許にはない。

ここへ暗殺者が乱入すれば抗戦することは不可能に近い。

 

ここに、あの時なにかをしなければ、或いはなにかをしていれば、その瞬間は訪れなかったというような時間が前に進む方向を変えたことによる結果としての突然の不幸、坂本龍馬暗殺があった。

 

いかが?

コジツケ?って?

かもしれない(笑)

でももっと早く夕食をすませていたら?

部屋が片付けられ、刀が身近にあったなら?

はてさて?

他にもあるあるこの手の時間のイタズラ

また推論を乱暴にお披露目いたしましょう!

 

始まりと終わりはセット?-2

閑話休題

去年の今ごろ

何をしてたか思い出すのに時間がかかる

日記のようなものは書いているが、

引っ張り出して見るのが面倒くさい(笑)

コロナの感染拡大でワイワイ騒いでいたのは覚えている。

一年後?また同じように騒いでいる。

夏の催事か?

経済復興と騒ぐ前に、患者が急増して病院はパンク、企業も人員不足で運営が思うに任せず低迷、交通機関も同じく、

でどうなるかというとジャパンのデフォルトか?(笑)

そういや京都市は破綻するのかな?

改善策を見てると京都の政治家はんはみーんなのんびりしておいやすなぁ?

神社仏閣はんから期限付きで固定資産税払ってもらえば随分楽になると思うが?

バチ当たるのが怖いかな?(笑)

今年の7月は忘れないだろうと思う。

安倍元総理暗殺

警備体制万全なら確実に防げた事件だったと思われる。

衝撃的な事件で忘れられない、忘れないもあるが、私が検査入院をして退院した翌日の出来事だった。

七夕の翌日、別れた女房との結婚記念日(笑)

時間の為せる不思議がこの事件にはある。急遽の予定変更、2発目の弾丸が致命傷となった原因。

突然の不幸とは、当たり前のことだが予期できない。

しかし不幸に至る経過を調べると、必ず時間のいたずらが現れる。

あの時なにかをしなければ、或いはなにかをしていれば、その瞬間は訪れなかったというような時間が前に進む方向を変えたことによる結果としての突然の不幸。

自分に当てはめて思い出してみれば、

例えば交通事故、怪我、失敗etc.

必ず時間の進む方向を変えるようななにかをした後に起こっている。

あのう?念押ししておきますが、カルトじゃないですから(笑)

元戻り出来ない時間の進行方向には、輝く未来もあれば悲惨な不幸もある。

ここらを突き止めようとしたのがアインシュタイン?じゃないだろうけど(爆)

有名な暗殺事件とその前にあった時間の進む方向を変えるような出来事、

記録から引っ張り出してみましょうか?

まあ夏の暑気払いに。

お楽しみに。

 

始まりと終わりはセット?-1

物理的にも心理的にも....多分

いや確実に、始まりがあれば終わりがある。

物理的には変化、心理的には経過?

ちょっと違うかも知れない....。

しかし両方に必ず「必要」「不可欠」なのは時間だろう。

時間は存在もしないし、形も色も匂いもない無味無臭、不可視で固定も移動も出来ないが、宇宙に深く関連し、科学の原料、あらゆる生命体の「やむを得ない存在証明」であり、破壊も加工も修繕も制動も出来ない証明不可能な透明人間のようなものである。

時間に前後左右上下の三次元的概念は当てはめることが出来ず、強いて言えば前のみが存在する。

朝起きれば、仕事、遊び、どんなことをしていてもやがて夜になる。

夜を強いて言う前としてみた。

時間は人間が便宜上考えた秒、分、時間と言う単位で分割されて、それらが一体となって前に「変化」する。

この変化を時間の経過と表現しているが、変化は元に戻ることはなく、従って後や上下左右はない。

変化は宇宙の中の最小の単位で起こり、永遠が終わりのないことを現す言葉であるとすれば、永遠に変化する。

この永遠の中で形あるものには始まりと終わりが訪れる。

それは生命の有無に関わらず形あるものに形が出来た時に生じる条件だ。

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生命体は、誕生した時から生命は停止すると言う「決まり」に従い、時間が前へ変化するに連れ停止と言う「死」に向かっての生命活動を始める。

知能の備わった生命体は、停止を避けられないものとして認知しているが、いつ停止するか解らない時間の変化の中で生命活動、即ち生活を送る。

(中断)