始まりと終わりはセット-6

始まりと終わりの究極は「生と死」であることは誰もが物心ついた頃から意識し始める厳粛な事実だ。 

年齢と共にそれに対する意識や感覚、認識も変わってくる。

笑いながら死を口にする年代もあれば、出来るだけ意識せず忘れようとする年代もある。

また思いもかけず直面してしまうこともあれば、瞬きする間もなく訪れることもある。

個人的には、期限を宣告され、或いはさほど遠くない期限にそれを受け入れるのは最も過酷で難渋を極める容認への努力を要すると思う。

病気によるもの、激戦地への徴兵、死刑囚などがそれらに当たるが、どれにも微かではあるが生への期待は残されている。

 

死生観は人種によって大きく異なる。

また育った環境や、教育によっても異なると思われる。

人としての尊厳を重んじるほど死に臨んだときの態度は潔く、生き様に強い執着を持って生きた人ほど生への執着は強い。

「仕方ないだろう」と受け入れる人もいれば、「なぜなんだ?どうしてなんだ?」と否定する人もいる。

 

偉人、著名人の最期のときはほとんどの場合飾られて伝えられる。

それは民衆の心を安定させ、希望の光を持たせるためである。

つまり自分もそうあらねばと言う意識喚起のためである。

宗教とは無縁の政治的なものを感じる。

破廉恥でもいい、不細工でもいい、

惨めでもいい、或いはお手本のような堂々たるものでもいい。

最期の感情の発露、吐露、表現がどのようなものであっても誰もそれを責めることも出来ないし、批判や評論することも許されない。

「終わり」はその先がない事象で、その先がないものを評価することは許されない。

いや、意味がない。

しかし全ての人が、死を迎える寸前まで意識の有無に関わらずスジャータの出現を待っているのだろう。