始まりと終わりはセット-5

2ヶ月半の時間が経過した。

運命を電池や糸に例えて、自己満足の怪しげな人生運命説を展開していたが、思わぬ出来事が勃発し、2ヶ月ほど生きるための買い出しと商取引を実行するための外出以外は家に閉じこもり(引きこもりではない)、ただひたすら今なにが起きているのか、勃発した出来事の原因はなにか、それによって生じるのは利益か損害か、或いは利害ではなくそれこそ電池と糸で操ると例えた運命を大きく変えるような何かが近い未来に居座っているのか?などと無駄な考えに時間を費やしていた。

我が身に起こった出来事ではあるが、予測したり夢に見ることもなかったようなことで、当初は頭から、思考からそれを振り払い、あたかもなにもなかったかのように時間の経過を待つだけの日々を送っていたが、まるで池の深みを探るために抜き足差し足で少しづつ歩を進めるに似た事実の客観的な観察と認識、それに関わる情報収集を行っていくうちに、まず利害関係ではノンプロフィットで経済的負担が発生することは否めないことが判明した。

これは考えるまでもなく解ることで、しかし発生するであろう費用的なことに関してはまるで知識がなく、不安から考えることをネグっていた。

すると次に考えなければならないのは、勃発事象が自分の生活、将来にどのような影響を及ぼし、その結果生じるか残されるのは運命の種類で言えば、幸なのか不幸なのかと言うことである。

決して幸とはならないことは明らかだが、電池が尽きることなく、また糸がもつれたり途切れることがなく運を逃さずたぐり寄せることが出来れば不幸は生じない、残さない「期待」は持てる可能性はある。

しかし大きな問題は、自分自身の知識や力は何の役にも立たないことである。

それこそ運を天に任せて...持論とは大きく異なるが(笑)

慌てず騒がすを観察し、その流れ、動きで電池や糸の残量を推測し、たっぷりあれば成り行きに任せ、乏しければ落とし物の電池や糸に出会えることを期待しつつが尽きたときの準備も進めなければならない。

実に抽象的で、転結のない独白になってしまったが、自分では戦々恐々としながらも、持論証明への期待を抱き、いつになく早い時の経過に戸惑っている。