元々が個? それとも?

個と言う字は、人を現すニンベンと口は城郭、古は兜をかぶった人を現しているという。
つまり自分の立場を理解して一人でなにかに立ち向かう?
いや、単に一人でいるだけかも知れないが。

人は太古の昔から個では生活してこなかった。
群れ、集団を形成し共同作業、外敵への備え、移動、狩猟、農耕を行い子孫を残してきた。

しかし近代から現代にかけて、群れから離れ一人で生きる形態がみられるようになった。
それは文明が発達し、食料をはじめ生きるに必要な物資が、金で入手出切るようになったからである。

個は孤独ではなく、独立と言う表現をされるようになったが、果たして孤ではないのだろうか?
孤独を愛すると公言する人もいるが、それは財力があり、財力で買える他人の奉仕がある限り孤独とは言えない。

真の孤独、それは心に苦しみを抱いた時にやって来る。
苦しみを解決するのは自分自身である。
他人に話して一時的な発散は出来ても、解決には至らない。
張り裂けそうな胸の苦しみを解決出来るのは自分自身で納得、諦観、自身との妥協をするしかない。

そして、その自分自身でしか解決出来ない苦しみは失恋や、事業の破綻や、人間関係などではなく、生命の期限を限られた病苦に犯された時にやって来る。(限定してはいけないかな?しかし世間には驚くほどの例がある)
相談では解決しない、医学にも限界がある、他人は同情してはくれても助けてはくれない、いや助けられない。

迫り来る期限に対して、自分自身がどのように対峙するのか。
精神力を絞り出して、なさねばならぬことが期限までに出来るのか。
自暴自棄に陥って全てを放棄するようなことはないのか?
自身を律して、苦悩を隠しいつも通りの生活を送りながら、あるいは病床に伏しながらなんらの乱れや焦燥も出すことなくその日を迎えられるのか?

全ての人にいずれ訪れるその日を、事前に知ってしまった悲哀を恨むことはないのだろうか?
個と孤は、ここで自ずと同一の語となり、
重くのしかかりながらも、人の存在を再認識し、高め、後に残るものにする原因と成るのではないだろうか。