誰しもに生きる義務がある?

インスタのお友達、と言っても拝見しているのみで書き込みをしたこともないのだが、その方の投稿中の書と言うべきか、絵と言うべきか「生きねば」という重い言葉が目に飛び込んできた。

鈴木敏夫ジブリ展でのものらしい。

申し訳ないのだがジブリにはあまり知識も関心もなかった。

しかしおぼろな記憶では、以前は「生きろ」ではなかったかと、曖昧と定かでない記憶を辿って見たが結論は出るはずもない。
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命あるもの生きねばならない。

生活苦や精神的苦痛の最中にあろうとも生きねばならない。

生を放棄することは冒涜であると思っている。

無責任に、押しつけがましく、また世間の通論、常識、道徳などと関係なくそう思っている。

ところが自らが正論であると思っているこの生きねばも、どうしようもなく無責任で無理難題となる場合がある。

病で余命宣告をされたら、「生きねば」は少しでも余命を伸ばすために、当人を励ます言葉になるのだろうか?

落ち込まず、毎日を精一杯過ごすための力水となり得るのだろうか?

余命宣告をされても、あの人は日々を大切に、毎日をを愛おしみ与えられた残りの時間を大切に過ごした…私にはあり得ないことだと思う。

聖人君子であろうとも、心は千々に乱れ、湧き上がる不安に苛まれ、いつ訪れるやも知れぬその瞬間を待つことは、自分を誤魔化し、周囲への迷惑を防ぐため、最後の精神力を振り絞って「体裁」を保つという空虚な行為に他ならないと私には思える。

 

芯が折れた鉛筆で文章を書くに等しい。

諦めなければならない状況下で、努力や挑戦は不可能である。

「生きねば」は、振り絞れば出て来る体力、自らを叱咤すれば湧き上がる精神力が残されている時、人に課される命の尊さを自覚するために己を励まし、自分を奮い立たせるための言葉ではないだろうか?

 

ある日、突然余命を宣告されたとき、果たして人はどのように受け止め、自分の中で孤独にそれに立ち向かうのだろうか?

 

心の乱れをなんとかまとめようと感情をそのまま文章にしたような、とりとめのない走り書きになった。

まとまらない思考をなんとか一本化し、回答などを導き出すのは不可能だが、方向性くらいは見出そうと悶々とするが、今の自分はあまりにも矮小であり、耐えきれぬ痛みを止めるより終焉を選ぶ考え方に全面的に身を委ねてしまう。

誰しもがそう思うのではないだろうか?

それとも私があまりにも弱いのか?

 

乱心乱文 仁知皆無 待たずとも来たるものは運命ではなく、避けようのない不運である。

それがなんとか誤魔化しながら辿り着いた言い訳か。