縁起担ぎ 花は遅かった
端午の節句三日前に菖蒲の花を買った。
まだつぼみで、5日頃には見事な姿を見せてくれるかな?と期待💛
実は、6日にちょっと悩んでいる心配事があって、その縁起を担いでいたのかも知れない。
端午の節句に綺麗に開いた菖蒲を観て、明日は良い日になる!と思い込みたかったんだろうね(笑)
験を担ぐなんて言い方もあるけど、いずれにせよ縁起、運に頼る人間特有の「他のなにかに救いを求めたり、他のなにかのせいにする」無責任で弱くて、現実逃避とでも言えそうな性癖、困ったもんだとは思っても無意識にそういうことを考えている。
で?どうだったの?
菖蒲の花がおそかったからなにがどうなった?って尋ねられると困ってしまう😅
もともと経緯からしてもあるべき結論が出ただけ。
ひょっとして、菖蒲の花が端午の節句に見事開花したら、期待でしかなかった現実味のない結論が得られるかもという、不可能を可能に転換しようとするような、運、縁起へのまるで陰陽師が如き思考迷路に陥っていたのでありました(笑)
でもね.....将来に関わる一大事に向き合ったとき、人間ってそんなものだと思いますけど?
今日から
いまごろなってどうして新しくブログ始める?(自問自答かな)
2022/5/5 <言い訳>
6年前にふと思い立ってブログを始めたんですが、続かず、書けず、書いてもつい内容が偏ったりでながらく放置してました。
今年の4月、致し方なくどうしても受け入れなければならないことが出て来て、
日記代わりに思いつくことを書いてみようと再開。
公開はどうかな?とも思いましたが、
ひょっとして私のような者でも悩み、考え、調べたことがなにかのお役にたてばと厚顔にも…😅
以下、書き始めから
実は、今年、いや去年から色んなことが立て続けにあって、
少々生きるということに対して誤解をしていたことに気がついた。
QOLというやつかな?
誰でも病気になる、でもその病気とどう闘うか、付き合うか、或いは諦めるか。
そしてそういうことを考えなければならなくなってからQOLを考えても遅い。
漠然とした序文から始まったが、後悔の真っただ中にある人間の言葉は、
きっと参考になると思いますよ?
運とは? 偶然/確率/努力
前回の不安からちょっと離れましょう。
なぜか?
個人的に不安を抱え込んでしまったからです(笑)
だから題材としては反対側にある「運」
どんなものか、本当にあるのか、呼び寄せられるのかなど、楽観的不安解消法のような題材を選んでみました。(いや、選んでしまった?)
運にも色々あるようです。
ふと浮かぶのは幸運、悪運? 難しく言うと運には天運と地運というものがあるそうで、天運は人の力では変えられないもので、地運は死ぬまでの間に自分で積み上げていくものだそうです。
人の運はこのトータルで決まるらしいです。
もっと解りやすく、運の種類を五つに分けて五運として、愛情運、仕事運、金銭運を三運と云い、これに人気運、健康運を加えて人の運を考える方法もあるそうです。
なんだか占いに近いようなイメージですが、楽しそうですね。
わたしは、人の運は幸運と悪運の二つだと思ってます。
幸運は文字通り幸せいっぱいの誰もが喜ぶ運でしょう。
では悪運は?
よく悪運の強い奴だなんて言いますね?
切羽つまった状態から抜け出た時なんかにそんな言い方をします。
悪運とは、運を授かった当人にはありがたく、利をもたらし、ひょっとして幸運なのかも知れません。
しかし悪運は個人にもたらされるものではなく、悪運のとばっちりを受ける人がいる運です。
例えば経済的に追い詰められて明日の暮らしもままならぬと言う状態にいるひとが、ふとした拍子に財布を拾いました。
法律的には警察に届け出なければなりませんが、背に腹はかえられぬとネコババしてしまいました。(犯罪です)
財布の中身にもよりますが、一時的に困窮をしのぐことは出来ます。
ところが財布を落とした人は、それがなけなしのお金だったかも知れません。
もしそうならば、悪運は落とした人に乗り移ったと言えます。
幸運にせよ悪運にせよ、運がよけりゃと言う言葉があるように、運が我が身に寄り添ってくれるかどうかが問題です。
運を呼び寄せるなんて言葉もありますね。
運とは言ってみれば行き当たりばったりの誰にも予想もつかない、突然現れる思ってもいなかった結果?
喜びも悲しみも結果次第の人生と言う航海を良いようにも悪いようにも揺さぶる波のようなものとしておきましょう。
さあその運がどう揺さぶってくれるのか、天に任せてどのような結果が出ようとも受け入れなければならないのが人生というもののようです。
喜怒哀楽の元締め?なのかも。
人の悩み 不安
以下借用文
”ストレスや憂鬱は、現代人にはつきものです。欲や怒りを刺激する情報はあふれているし、苦手な人づきあい、気の進まない仕事・残業も次々にやってきます。特に4月から変化が続いたあとの梅雨の時期は、いっそう心が重たくなる季節です。(中略)
マイナスの感情を癒す秘訣は、驚かれるかもしれませんが、「感情のない状態をとりもどす」ことなのです。
つまり、怒りも喜びもない“ニュートラルな”精神状態――ここに戻れるようになったら、心は劇的に健康になります。“
あるところでこれを読みました。
なにかの宣伝?だったかな?
そうじゃないかも知れないんで、「ご意見」としておきます。
感情のない状態 無と言うことでしょうか? この借用文ではこのあと仏陀についてのあれこれが展開されていました。
果たして無であるとするならば、人間は無になれるんでしょうか。
人間にとってストレスや不安は昔から「心」を締め付ける迷惑極まりない感情の一種でした。
なんとか逃れようと宗教に縋ったり、酒や麻薬に頼ったり、知らずして鬱に陥り生命に関わる事態を招くこともあったでしょう。
宗教も酒も麻薬も解決出来なかったものを化学と医学の力で解決しようと試みたのです。
これで人類は悩みから解放される!
マスコミはそう喧伝したらしいですが、
このトランキライザーはさほどに効果も認められず、依存性があり薬品ですから当然のこと副作用も発現しました。
しかしその後も向精神薬は進歩し、精神神経科では大いに役立っているはずです。
はずですと曖昧な表現をしたのは、勉強、調査不足で明言できないのと、わたしが軽い安定剤、睡眠導入剤の使用経験しかないからですが、総合失調症などでは大きな役割を果たしていると聞きます。
さて話を戻しましょう。
無になれるのか?という疑問でしたね。
考えないようにする程度は経験上可能ですが、それは短時間のことで、不安はまた頭をもたげます。
個人的には「無」は不可能だと思います。無になる努力をするよりはその原因を明らかにして、原因が発生した理由を考えることが解決ではなく、納得、諦めを生んでくれると思います。
もう一つ、安定剤や酒に頼る前に、現在の感情や不安、何故そんな状態になったのか思いつくこと全てを書き出してみて下さい。
個人的な経験と結果ですが、大きな安定を得られます。
そして原因と、その発生した理由にも気付きます。
更に経験からですが、不安に駆られたとき、おっくうで辛ささえ感じるときもありますが、外出することも大切です。
初対面の店員さんと話すだけで心が晴れることもあります。
それなら家族や信頼出来る友人に相談すれば?と考えるでしょう。
それも大いに有効な解決、いや解決は出来ませんが緩和する手段であることは確かですが、甘えから頼ってしまうと相手の負担が大きくなってしまうという諸刃の剣てあるとわたしは思ってます。
彼らには従来通りの接し方を継続したほうが良いと思っています。
さあて長くなりました。
私見と偏見に満ちたものになったかも知れません(笑)
機会があれば、けっこう珍しい経験を交えて、心の元気を保つ方法を考えてみましょう。
元々が個? それとも?
個と言う字は、人を現すニンベンと口は城郭、古は兜をかぶった人を現しているという。
つまり自分の立場を理解して一人でなにかに立ち向かう?
いや、単に一人でいるだけかも知れないが。
人は太古の昔から個では生活してこなかった。
群れ、集団を形成し共同作業、外敵への備え、移動、狩猟、農耕を行い子孫を残してきた。
しかし近代から現代にかけて、群れから離れ一人で生きる形態がみられるようになった。
それは文明が発達し、食料をはじめ生きるに必要な物資が、金で入手出切るようになったからである。
個は孤独ではなく、独立と言う表現をされるようになったが、果たして孤ではないのだろうか?
孤独を愛すると公言する人もいるが、それは財力があり、財力で買える他人の奉仕がある限り孤独とは言えない。
真の孤独、それは心に苦しみを抱いた時にやって来る。
苦しみを解決するのは自分自身である。
他人に話して一時的な発散は出来ても、解決には至らない。
張り裂けそうな胸の苦しみを解決出来るのは自分自身で納得、諦観、自身との妥協をするしかない。
そして、その自分自身でしか解決出来ない苦しみは失恋や、事業の破綻や、人間関係などではなく、生命の期限を限られた病苦に犯された時にやって来る。(限定してはいけないかな?しかし世間には驚くほどの例がある)
相談では解決しない、医学にも限界がある、他人は同情してはくれても助けてはくれない、いや助けられない。
迫り来る期限に対して、自分自身がどのように対峙するのか。
精神力を絞り出して、なさねばならぬことが期限までに出来るのか。
自暴自棄に陥って全てを放棄するようなことはないのか?
自身を律して、苦悩を隠しいつも通りの生活を送りながら、あるいは病床に伏しながらなんらの乱れや焦燥も出すことなくその日を迎えられるのか?
全ての人にいずれ訪れるその日を、事前に知ってしまった悲哀を恨むことはないのだろうか?
個と孤は、ここで自ずと同一の語となり、
重くのしかかりながらも、人の存在を再認識し、高め、後に残るものにする原因と成るのではないだろうか。
生きるために死ぬ
なーんか、お題見ると暗い話?
そう思うかも知れませんね、でもそうじゃないんで安心して下さい。
誰に宛てる訳でもない先に残す日記のようなものかもしれません。
人間はみんないずれは死にます。
だから生きてる間が大切な時間なのか、それとも死んでからみんなに残す思い出の方が大切なのか?
例えばとても重い病気になって、周りの誰かに迷惑をかけることを考えると、何となく気が重く悲しく感じられます。
でも歳をとっても毎日元気で暮らしているなら、あまり周りに迷惑をかけないのでそれほど気が重くもならないでしょう。
この辺の微妙な感覚が、若い人たちには絶対にわかりません。
いやわかってはおかしいですね?
私が今感じているそんなこんなを気の向くままに綴って行こうと思います。
もしこのブログがお目に止まったら気の向いた時に、
気の向くままに読んで下さい。