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このところ出かけることもなく、

急いでしなければならないこともなく、

要するに暇で(笑)

たまたま観たNetflixゾンビ映画にはまってしまった。

単にゾンビとの争いではなく、人間の心理的な面白さもあって、TVのシリーズものだと思うが、延々と続く(笑)

 

昨夜は午前3時頃まで観ていた、ん?もう今朝か?

いくつかの生存者グループがあり、この対立や政治的な支配もあったりして、死と隣り合わせの人間のエゴイズムや真反対の純粋さも描かれている。

 

今日の未明に観た場面の映像に表題の英文が壁に書かれていた。

「これを読んでいれば私はまだここにいる」

直訳すればそういうことか?

でも映画の成り行きからは、私はまだ生きていると訳した方が良いのではと思った。

 

病身の割にはチャッカリ、早速SNSの投稿の文末に使わせて頂いている(笑)

まだ検査結果による決定的な結果が出たわけではないが、あまり芳しい状態ではないことはそれとなく解る。

今日明日にどうなるというものでもないが、そう簡単にはいかないだろう。


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ストレリチア

突然なんだよ?って?

こいつ、30cmほどの小さな鉢物だったのが、今や天井に届く。

おまけにまだ新しい芽を抱いている。

凄い生命力!

I’m looking this I’m still here.

ふとそんなモジリが頭に浮かんだ。

 

生命力とは運、元々定められているもの

そんな気がする。

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see ya.

 

 

 

医学は治療のみ?

検査のために5日間の入院をした。

これに対しての慰労、見舞いの言葉が人によって随分異なる。

結構面白い😋

・どうされたんですか? どこがお悪いの?

まずこれが一番多かった

次いで

・5日も?大変でしたね もう大丈夫なんですか?

・えっ!知らなかった!(教えてないから当然)お見舞いにもいかず

・5日?短かったですね?

なんの検査したんですか?

一番面白かったのが

・えー?なんで?教えてくれなかったんですか?冷たいなぁ!

(そんなに親しくもないと思うけど)

 

検査の目的は定期的な検査による病変の発見で、その部分の組織を腹腔鏡で採取して調べると言うそう大げさなものではなかったが、一応は(痛いので)全身麻酔で施術された。

術後の傷口の痛みなどはさしてなく、辛いのは長時間挿入されていた人口呼吸器が喉に与えた刺激と、同じ姿勢でいたために首筋から背中にかけての凝りと痛みが酷く、体が思うように動かせないことだった。

絶飲食なので水は飲めない。

喉の痛みや痰のからみは尋常ではない。

その上、狭いベッドの上で体が動かせない。その状態で24時間我慢しろっていうのは拷問に近い。

意識もなくICUに入っているのとはまるで違う。

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しかし表題の「医学は治療」とこの辛さは関係ない。

確かに新たな疾患が発生しているかもしれない、それを調べるための検査がここまで辛いと、高齢者の方の中には次にまた検査と言われたらもういいよと言う方も出て来るだろう。

 

本題に戻ろう。

医学とは病気や怪我、障害を治療し、軽減するか、健康な状態に戻すために存在すると言うのが定義なのか?

「医学(いがく)とは、生体(人体)の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断・治療・予防する方法を開発する学問である。 医学は、病気の予防および治療によって健康を維持、および回復するために発展した様々な医療を包含する」。

安易にネットで調べるとこういうのが出て来た。

しかし、この中に患者の精神的な苦痛や病後生活、治療や治療薬により発生して残されたり人生に与える影響などには触れられていない。

 

私自身も何度か入院をした。

そしてその都度上述した点に関して説明をした医師はいなかった。

私自身も不勉強で質問するための疑問すら持っていなかった。

治癒すればいい、そう思っていただけである。

 

現在でもまだまだ、QOL(人生の質)や

ACP(Advance Care Planning、将来の変化に備え、将来の医療及びケアについて、 本人を主体に、その家族や近しい人、医療・ ケアチームが、繰り返し話し合いを行い、本人による意思決定を支援するプロセス)

などの説明をする病院、医師は希少な存在であろうと思う。

例えば抗癌剤の使用に際し、その副作用や後遺症などの十分な説明もないのが現実である。

パンフレットを手渡され、質問があればどうぞ程度のものだろう。

 

癌サバイバーたちのサイトを拝見すると、体験や情報で得た抗癌剤の副作用やそれに対処するための方法がたくさん集められている。

しかしこれらが副作用防止のために病院で投薬時に行われることはほとんどない。

患者自らが投薬時に対処方法を実践しているのである。

 

先日、退院時に医師にこれらのことをはしょって質問してみた。

医師は、副作用か強く出る人、一過性で治まる人とそれぞれなので全て対象として病院で予防措置を行うことは難しいと言った。

またQOLやACPに関しても、考えなければならない大切なことであるのは十分に認識している。

しかし、自分(医師)の場合、月、火、木と手術があり、その他の日にはカンファレンスがあり外来がある。

大切なことだと思っていても時間的にいろんな患者さんに公平に対応するのは物理的に困難だ、と言うのが彼の回答であった。

 

二の句が継げなかった。

これはこの病院の経営の問題か?

日本国の医療というものに対する根源的な問題か?

或いは医学界に大昔から根強くはびこった習慣によるものか。

 

医学とはなにか?

なければ困る、いまの私にはこれしか回答がない。

 

 

 

 

 

 

人間ってホモサピエンス?

例えば明日が消失したら

ある日突然、明日からの存在を否定されたり、無用であると宣告されたらあなたならどうする?

自分に非があるのでもなく、漫然と明日から来なくていいよ、君に頼むべきことはなくなったよ。

つまり存在を否定され、価値がないと宣告されたら。

なにが原因?

それは宣告した当人にも、されたがわ身にも永遠不滅の疑問として残るのだろう。

現代において、個人的な感情で人の存在はひていできない。

さかさそこに至ってしまった原因は何かしら存在するはずである。

人の種類ってあるのか?

さまざまな人が住んでいるのだから

当然人はいくつかのグループに分類されるであろう。

それが、所属する企業にとって有意義な者であるか、無意味な者であるかには基準はない。

ごく個人的な考え方によって分類され、大ぴっらにされることもなく秘密裏に、個人が個人の嗜好によって分類されるのみである。

そこには服装のセンス、会話の洗練度、外見上のことも含まれるかも知れない。

そしてそれらは一切表面化されることなく選別の大きな原因になっている。

ハンセン氏病の患者が後世になってその存在を認められたように、時勢の流れの中で認められ、権利を与えられ社会のど真ん中ではないにせよその存在は認められるのだ。

大きく輝く

ことはいくら世情が認めようとも、人間の生まれながらに持つ本能によって阻まれてしまうのだが、少なくとも、半世紀前までの処遇と比較すれば驚くべき進化を遂げることは間違いない。

世間ではそれを進歩、解放と呼ぶ

人類の努力と呼ぶ

 

果たしてそうなのかどうかは、その歴史的な過程を検証し、過去と、現在を比較しなければ推論さえ出せない。

例えが簡単明瞭な黙示による差別が時代と共に撤廃為れていったことに題材を求めたのが行けなかったのか?

しかし100人いれば、その100人に起こり得るなにが原因が不明のまま終わってしまう大罪の原因となる者がそこには存在する。

以下に人道的に物事が解釈されようとも、未来永劫怪傑には至らない人の葛藤が厳然と存在するなにがが、人の世のなから消えてへはなくならない。

黒人と白人のごとく、もんごろいどとコーカサスのごとく、決して消えることはありえない。

大切


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大切とはとても優しい、そして丁寧になにかを扱う、接するような場面で使う言葉なのだと解釈している。

言葉の語源は、大切は「大いに迫る(切る)」「切迫する」の意味を漢字表記し、音読みさせた和製漢語であると説明があった。

大事という言葉も似通った意味を持つが、なんとなく感覚的に異なる気がする。

とても好きな言葉であるが、なぜか余り使わない。

いや使わないようにしている。

本当に大切なものはなにか、それが自分にはまだ理解出来ていないような気がするからである。

人にとって最も大切なものは?と尋ねたら「命」という回答が最多ではないかと思う。

しかしそれは日本人の価値観から生まれたものであり、大陸や欧米では命以上に大切なものがあるのではないだろうか?

環境、生活、宗教などにより価値観は大きく異なると考えている。

いまこの現代に行われている悍ましい侵

略戦争の中においても、侵略に雄々しく対抗している国の人たちは、命より誇り、祖国愛、守るべきなにかが、私のようなごく一般的な日本人とはまるで異なっていると如実に感じている。

そこには私には考えられない、私の思考の中にはない、感動と崇高さを感じさせられるようなものもある。

それが正しいとか、憧れると言うものではなくその大きな違いに、人として生きると言うことはとても難しく、結論など出せるものではないと感じさせられた。

潔し、未練、勇敢、臆病などとごく一般的な表現ではとても及ばない「大切」ななにかがある。

いつの日か自分もその大切を見つけ出す時が来るのだろうか?

或いは本当の大切を知らないまま、重ねた年齢に胡座をかいて、大切と言うことばを臆面もなく使くだけなのか?

 

経過の感覚


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時間の経過は、実に奇妙で微妙。

5分がその時々で、長くも短くも感じられる。

いや、感じるのではなく時間を使うといった方が良いだろう。

使い方ではなく、使うことによって経過する時間の感覚的な長短のことである。

5分に変わりはないが、その間に驚くほどのことが出来たり、ただ茫然として時が過ぎたり。

本当に同じ5分とは思えないほど、感覚的な長短に差がある。

 

時間は感情に大きな影響を受けないか?

喜怒哀楽によって、物理的に5分であっても精神的にはそうではない。

精神時間などというものが存在するのかどうか、残念ながら浅学で説明どころかその観念さえ表現できない。

是非とも調べてみたい題材ではあるが、はてさてなにからどのように調べれば良いのか見当もつかない。

個人的なことで申し訳ないが、小生訳あって3日後に検査のために入院するが、痛くてうなっていれば不可能だが、天井を眺める時間はたっぷりあるはずで、そいつをきっかけにまず、時間が感情に左右されて精神的な長短は生じるのか?

辺りから下手な考えを休まずに継続開始してみようかと思う。

誰しもに生きる義務がある?

インスタのお友達、と言っても拝見しているのみで書き込みをしたこともないのだが、その方の投稿中の書と言うべきか、絵と言うべきか「生きねば」という重い言葉が目に飛び込んできた。

鈴木敏夫ジブリ展でのものらしい。

申し訳ないのだがジブリにはあまり知識も関心もなかった。

しかしおぼろな記憶では、以前は「生きろ」ではなかったかと、曖昧と定かでない記憶を辿って見たが結論は出るはずもない。
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命あるもの生きねばならない。

生活苦や精神的苦痛の最中にあろうとも生きねばならない。

生を放棄することは冒涜であると思っている。

無責任に、押しつけがましく、また世間の通論、常識、道徳などと関係なくそう思っている。

ところが自らが正論であると思っているこの生きねばも、どうしようもなく無責任で無理難題となる場合がある。

病で余命宣告をされたら、「生きねば」は少しでも余命を伸ばすために、当人を励ます言葉になるのだろうか?

落ち込まず、毎日を精一杯過ごすための力水となり得るのだろうか?

余命宣告をされても、あの人は日々を大切に、毎日をを愛おしみ与えられた残りの時間を大切に過ごした…私にはあり得ないことだと思う。

聖人君子であろうとも、心は千々に乱れ、湧き上がる不安に苛まれ、いつ訪れるやも知れぬその瞬間を待つことは、自分を誤魔化し、周囲への迷惑を防ぐため、最後の精神力を振り絞って「体裁」を保つという空虚な行為に他ならないと私には思える。

 

芯が折れた鉛筆で文章を書くに等しい。

諦めなければならない状況下で、努力や挑戦は不可能である。

「生きねば」は、振り絞れば出て来る体力、自らを叱咤すれば湧き上がる精神力が残されている時、人に課される命の尊さを自覚するために己を励まし、自分を奮い立たせるための言葉ではないだろうか?

 

ある日、突然余命を宣告されたとき、果たして人はどのように受け止め、自分の中で孤独にそれに立ち向かうのだろうか?

 

心の乱れをなんとかまとめようと感情をそのまま文章にしたような、とりとめのない走り書きになった。

まとまらない思考をなんとか一本化し、回答などを導き出すのは不可能だが、方向性くらいは見出そうと悶々とするが、今の自分はあまりにも矮小であり、耐えきれぬ痛みを止めるより終焉を選ぶ考え方に全面的に身を委ねてしまう。

誰しもがそう思うのではないだろうか?

それとも私があまりにも弱いのか?

 

乱心乱文 仁知皆無 待たずとも来たるものは運命ではなく、避けようのない不運である。

それがなんとか誤魔化しながら辿り着いた言い訳か。

心を伝える/言葉で伝える

1968年、フォーククルセダーズのイムジン河は発売禁止になった。

原因や事情なんぞは当時の大人都合で興味もなかった。

メンバーの加藤は、即座に「悲しくてやりきれない」を即興のように作り上げた。

コード進行はやや違えど、二つの曲の神髄は同じだった。

天才というよりは天性のフィーリングを持ち合わせていたのだろう。

胸にしみる空の輝きは、イムジン河のとうとうと流れる水の美しさを、臆することなく晴れやかに表舞台で表現した。

 

まるで異なるジャンルの音楽にのめり込んでいたわたしにも、長身、痩躯の優しさだけが目につく加藤の胸の中で燃えさかっていた体制への反逆はひしひしと伝わった。

 

突然どうした?

そう質問されても応えようがないが、

その時の鮮烈な印象は今でもそのままわたしの心の中で炎を消すことなく燃えている。

 

個性や個人の思考を権力が押さえ込むのは赤子の手をひねるより容易い。

しかしそれに反発し、真っ向から対決するよりも、まるで異なった形で同じ個性と思考を表現し、人々に感動を与えることはその人の心が純粋で、諍いを好まず、かと言って個性と思考を曲げることなく行える才能と汚れのない精神のなせる技だろう。

 

例えとして取り上げた題材が、心情に訴える歌曲であったことが、伝えたい真意を茫漠とさせるかも知れないが、手法を変えた説得力は、思いもかけず人を揺さぶる。

 

とんでもない仮説を立ててみよう。

今わたしに死が迫っているとしたら、

悲嘆に暮れるだろうか?

恐怖を紛らわせるために羽目を外すだろうか?

人の胸に縋って束の間の安堵を得ようとするだろうか?

いずれも否である。

 

変人のわたしは、まず今までの人生に感謝するだろう。

出会った人、ケンカをした人、なにかを学んだ人、同じく共有した思い出を忘れずにいる人、愛した人、憎んだ人、ありとあらゆる関係のあった人たちを丁寧に思い出すだろう。

その人たちと歩んだ人生に溢れるほどの愛おしさと懐かしさを感じるだろう。

しかしそれはわたし個人の感覚であり、思考であるのだから、彼らとそれを共有しようとは思わない。

 

それらは心の中で、温かく溶け出し隅々まで行き渡り、迫ってくる避けようのない運命を、一つの約束のもとに訪れるわたしの人生の締めくくりとして、掌で包み込み、誰に知らせるでもなく密やかに目立たないところに飾って、一人で眺めながら哀切や喜び、怒りや自己嫌悪も交えながら、思いもかけず舞い込んだわたしの新たな人生として受け入れるだろう。

 

悲しくてやりきれないのは、未練ではなく正直に伝える言葉を思いつかないからで、苦しさは表現力の貧しさに対する悲しさで、燃えたぎる苦しさが明日も続くのは、まだ燻る希望が残されているからだろう。

 

悲しければ笑い、苦しければもっと悩み、果たして自分も知り得ない終わりだか始まりだかも判然としない、そして必ず終焉の来る人生を、人として迎える荘厳な儀式を「誰かに告げようか」

 

脈絡なき駄文をお許し願いたい。